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キットは鍾馗II型丙のフォルムを精密に再現。
組み立て易さを重視したパーツ構成となっています。
胴体と主翼の固定には大型の桁部品を使用し、
確実に位置が決まる設計を採用。
本機の特徴である蝶型空戦フラップはダウン状態も選択可能。
増槽、小型パイロン、着座姿勢のパイロットフィギュアが付属。
~帝都防空の要~ 鍾馗は一撃離脱戦法を重視した重戦闘機として開発され、航続距離が短い局地戦闘機的な性格でした。本土防空戦に投入され、帝都防空の要となります。鍾馗装備部隊としては飛行第70戦隊、飛行第23戦隊、飛行第47戦隊が東京周辺、飛行246戦隊が京阪神地区を担当し、来襲するB-29を相手に防空戦闘機としての本領を発揮しました。 陸軍は軽戦闘機の究極と言われた97式戦闘機で成功を収め戦闘機の航空用兵方法も軽戦闘機中心になっていましたが、昭和13年度の陸軍航空本部兵器研究方針により次期戦闘機の開発に当たり軽戦闘機(後の1式戦闘機隼)とともに世界各国で中心となりつつあった重戦闘機の研究を始めます。 陸軍からの要求は最高速度600Km/h以上・高度5000メートルまで5分以内、行動半径 600Km以上、武装7.7mm機銃2挺、12.7mm機関砲2門、当時の基準から考えると相当過酷な条件でしたが他国の重戦闘機が初飛行にかかる位の完成度にあり、これから開発する日本にとってそれらを越える戦闘機でなければ意味を持たないことを考えると必然的な条件であったでしょう。 軽戦闘機、重戦闘機共に中島飛行機が開発を担当、重戦闘機(後の鍾馗)は日本初めての機種であったため若手技術者を中心に熱のこもった開発が行われ、中島独自の設計思想をふんだんに取り入れ特徴の多い機体となりました。 一番苦労したのはエンジンの選択で高出力でコンパクトなエンジンがなかった為、爆撃機用のエンジン ハ-41 を採用。 この為特徴ある頭でっかちのデザインの根本となります。 セミモノコック式の構造を持つ胴体はカウルフラップの後端からコクピット周辺までで急激に絞り込まれ、機体開発コンセプトとエンジンの選択方法まで同じような経緯をたどった海軍の雷電とは対称的なデザインとなりました。 高速化のため翼幅を短くし、850Km/hの急降下 12.6Gまで耐えられる構造を持つ主。 旋回性能を維持するため中島独自の空戦フラップ兼用の蝶型フラップを採用。 水平尾翼より後方に配置された垂直尾翼は横安定性と縦安定性を分離して考えた結果でかなり有効であったようです。 増加試作機のテストの結果、最高速度は626Km/h(武装なしなどの条件付き)を記録。 「若干の改修を施せば対爆撃機要撃機として使用できる」と判断され機体の小改造の後2式単座戦闘機として制式採用されます。 かねてからテスト中であったハ-109エンジンが実用化され、ハ-109エンジンに換装 プロペラやオイルクーラーの構造と配置、防弾装備などが改良後2式2型単座戦闘機として採用されま。 最高速度600Km/h、高度5000メートルまで4分15秒と非常に卓越したものとなります。 2型には武装により甲、乙、丙の3種の型がありました、甲型は機首に7.7mm機銃2挺翼内に12.7mm機関砲2門を装備、乙型は機首に12.7mm機関砲2門翼内に40mm自動噴射砲2門装備、丙型は機首、翼内共に12.7mm機関砲各2門装備していました。 さらに改良型の3型が生産されますが4式戦闘機疾風に生産に切り替えられ少数の生産にとどまりました。 軽戦闘機の操縦に慣れた陸軍航空隊のパイロットはその操縦性を嫌ったようですが、慣れてくればそのつっこみの速さ、素直な操縦性や射撃時の安定性に魅了されていったようで、言われているほど難しい機体では無かったようです。 主な生産型はII 型丙で、タイ、ビルマ方面、中国大陸、フィリピンなどで要所防空に活躍しますが、主に本土防空戦で使用されB-29を相手に奮闘しました。 鍾馗の実戦部隊として有名なのは、独立飛行第47中隊で、鍾馗の実験装備部隊として開戦間もなくビルマ、マレー方面に展開していましたが防空戦闘機として活躍するチャンスはあまりありませんでした。しかし東京初空襲のショックもあり帝都防空のため内地(松戸、調布、成増)に移動、帝都防空の要となります。さらに鍾馗装備部隊として飛行第70戦隊、飛行第23戦隊、飛行第47戦隊、が東京周辺、飛行246戦隊が京阪神地区を担当、以後鍾馗を駆り来襲するB- 29を相手に防空戦闘機としての本領を発揮して活躍しました。