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加古は大正11年(1922年)11月神戸川崎造船所で起工され、
大正15年(1926年)7月に竣工しています。
加古の竣工が遅れたのは竣工間近にクレーン事故で船体を損傷したためとされています。
このため本来はネームシップとなるはずが、2番艦にされてしまいました。
こうして就役した加古は古鷹と共に第2艦隊、
第5戦隊を編成し主に南支那海、本土内海を中心に訓練に励むことになります。
なお、加古は古鷹と後の青葉、衣笠が重巡洋艦を意味する山の名称を付けているのに対し、
軽巡洋艦を表す河の名が付いていますが、
これは当初5,500トン級軽巡洋艦として企画されたことの名残です。
この後加古は古鷹、青葉、衣笠と準同型艦で戦隊を編成、訓練に励みます。
しかし、古鷹級は本来偵察巡洋艦として設計され、
7,100トンという小型の船体にある意味無理矢理強武装を施されため
必ずしもバランスがとれているとは言えませんでした。
さらに古鷹級より後の条約型巡洋艦である妙高級、高雄級などの1万トン級巡洋艦とは
開発年次の関係からも性能的に劣りいずれは改装工事が必要とされていました。
またワシントン、ロンドン両軍縮条約が
昭和12年(1937年)以降無効になるのもにらんでの改装予定でもあり、
こうして加古は昭和11年(1936年)7月より近代化改装工事に入ります。
最大のポイントは主砲塔の換装。
問題のあった20cm単装砲塔6基を20.3cm連装砲塔3基に置き換え、
さらに揚弾装置を動力式に近代化して砲戦能力を強化することでした。
さらに魚雷発射管を一二式舷側発射管片舷6門から旋回式の九二式四連装発射管に換装。
もちろん魚雷も世界最強の九三式61cm酸素魚雷となって砲雷撃能力を大幅に強化しています。
またカタパルトも呉式二号二型改一に換装され、使用機も当初は九四水偵、
後には零式三座水偵となりました。
さらに主砲の換装に伴い主砲方位盤、測距儀などもより高性能なものに換装されています。
この大幅な近代化改装工事は約一年半を費やして昭和12年(1937年)12月に完了しています。
ちなみに加古の改装工事は佐世保工廠でおこなわれていますが、
折からの海運不況などで仕事の減った民間造船所の救済策として、
また工廠が多くの工事を抱えて苦労していることもあって、
船殻工事を大阪鉄鋼所桜島工場に発注しています。
こうして改装なった加古は古鷹とともに第1艦隊、
第6戦隊を編成、昭和16年(1941年)には舷外電路の装着も終わって出師準備完了、
太平洋戦争へと突入します。
開戦時、加古は第1艦隊、第6戦隊に所属、グァム島攻略作戦を支援、
翌昭和17年(1942年)1月には遠く南太平洋に進出、ラバウル攻略作戦にも参加しています。
こうして順調に推移した第1段作戦を受けて持久体制を築くべく
第2段作戦が企図されポートモレスビー攻略作戦が発動されます。
加古の第6戦隊はMO攻略部隊に加えられ、
作戦時水上偵察機を発艦させて敵機動部隊の発見に功がありましたが、
ご承知のように珊瑚海海戦は空母vs空母の戦いでMO機動部隊に属していなかった加古は戦いには寄与していません。
ただ攻略部隊上空に援護の傘を広げていた空母祥鳳を敵の空襲から守ることはできず、
さらに敵の攻撃を避けて北方に避退しています。
この昭和17年(1942年)5月の珊瑚海海戦では米空母レキシントンを撃沈、
ヨークタウンを大破せしめたものの、我が方は祥鳳を失い、翔鶴が中破。
さらに多数の搭乗員を失って結果的にポートモレスビー攻略を断念したため、
戦術的には勝ったものの戦略的には敗退したとされています。
そしてこの後のミッドウェーでの完敗もあって攻守はところを代えようとしていました。
畳み掛けるように今度はガダルカナル島を起点とする米軍の反攻が始まることになります。
南太平洋の孤島ガダルカナルの攻防戦は日米双方の艦艇、
航空機を吸い込む巨大なブラックホールと化しました。
日本軍のガダルカナル島への飛行場建設を阻止せんと
可能な限りの戦力を投入してこれを奪取した米軍に対し、
再占領をもくろむ日本軍は三川中将の元に使用可能な艦艇を集中、
米輸送船団に夜襲をかけるべく突入作戦を計画したのです。
基幹とするは鳥海と第6艦隊の加古、古鷹、青葉、衣笠の5艦、
それに軽巡天龍、夕張と駆逐艦夕凪が従いました。
昭和17年(1942年)8月8日の午後11時30分から9日0時20分のこの戦いは、
連日の戦闘で疲労して監視がおろそかになっていた敵の哨戒線を幸運にも見つからず
突破した三川艦隊が単縦陣で突撃、豪重巡洋艦キャンベラ、米巡洋艦シカゴが反航してくるのを発見、
鳥海が魚雷4本を発射、キャンベラに2本 が命中、同時に砲撃開始、
面白いように敵艦に主砲弾が吸い込まれてゆきます。
続いて後続艦が砲雷撃を開始、シカゴ艦首に魚雷が命中して大破、脱落。
こうしてわずか6分間に一方的な戦いを展開して戦場を離脱するも古鷹が舵の故障で左に変針、
後続の軽巡2艦がこれを追随して艦隊は2つに分かれますが、ついてる時は何をやっても巧く行きます。
この後、米巡洋艦隊ビンセンズ、クインシー、アストリア、駆逐艦2艦が
2つに分かれた艦隊の間に挟み込まれたように出現します。
油断していた敵艦隊は突然の挟撃に為すところなく砲弾を浴び、
アッと言うまもなく炎上、沈没してしまいました。
こうして三川艦隊はわずか30分の戦闘で敵重巡を4艦撃沈、1艦大破。
我が方損害は殆ど無しという大戦果を揚げたのでした。
この時三川中将は当初の目的であるルンガ泊地の米輸送船団撃破を企図しつつも、
夜が明けて後の敵空母機の攻撃を考慮して北方へ退避してしまい
千載一遇のチャンスを自ら放棄してしまいました。
画竜点睛は欠いたものの完勝に気を良くしていた三川艦隊は
一路カビエンに向けて帰途についていました。 戦勝気分でおそらく見張りを怠っていたのでしょう。
8月10日朝早く突然米潜水艦、S-44が4本の魚雷を発射、この内の3本が加古に命中してしまったのです。
そして加古はわずか5分後には大傾斜して沈没、帰投間近の不運な損害でした。
「好事魔多し」とは言いますが、それを地でいったような出来事でした。
(要 目)開戦時
基準排水量:8,700トン
水線長:183.53m
最大幅:17.56m
主 缶:ロ式艦本式重油専焼缶 10
基 速 力:33.43ノット
航続力:14ノット 8,223海里
兵 装:20.3cm連装砲×3基 12.7mm 単装高角砲×4 25mm連装機銃×4基
13mm連装機銃×2基 4連装発射管×2基