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妙高級重巡洋艦のネームシップである妙高は大正13年(1924年)10月起工、昭和4年(1929年)7月に竣工しています。 第1次世界大戦以前から続く世界列強の建艦競争は各国の経済をようやく圧迫し始め、たまりかねた列強はアメリカが音頭をとったワシントン軍縮条約を締結するに至ります。 日本海軍は戦艦、空母を対米英7割と主張したのですが入れられず6割に甘んじなければならなくなります。 しかしワシントン条約では個艦の性能に上限はあったものの保有制限は加えられなかったため、各国列強就中日本海軍は巡洋艦の建造に力を注ぐことになり、こ うして基準排水量1万トン、20.3cm(8インチ)砲搭載の重巡洋艦の建造が世界各国で始まることになります。 このためこれらの巡洋艦を条約型巡洋艦と総称します。 妙高級はこうした世界情勢の中から平賀譲造船大佐の手により生まれたのですが、昭和4年(1929年)は世界恐慌が始まった年で、予算的な面で厳しいため 工事の進捗は極めてゆっくりしたもので完成したのは昭和5年(1930年)9月になってからでした。 こうして妙高は就役すると第4艦隊、第2戦隊を同型艦で編成、折しも戦艦が改装工事に入っていたこともあり、主力艦隊となったのです。 しかし、日進月歩の造船技術は後に就役した高雄級、最上級より妙高級が若干見劣りするようになったため、昭和8年(1933年)より逐次近代化改装工事を 施すことになり、妙高は昭和9年(1934年)9月より一連の改装工事に着手、最終的に昭和11年(1936年)に完了しています。 主な改装点は砲戦能力の強化、魚雷兵装の改善、航空兵装の強化、対空兵装の強化などとこれらの改装による重量増加に対応してのバルジの大型化でした。 第一次改装工事が完了した妙高は折から始まった日中戦争支援のため第3艦隊、第9戦隊旗艦として主に南支那海で作戦行動をとっています。 妙高級はその後わずか数年で再び近代化改装工事を施されることになります。 改装のポイントは基本的には第一次改装と同じで、砲戦能力の強化、魚雷兵装の改善(この改装で片舷4連装発射管2基がフルに装備されています。)、航空兵 装の強化、対空兵装の強化などと、これらの改装による重量増加に対応しての一層のバルジの大型化でした。 なお、同クラスで最初に改装工事に入ったのが羽黒で、妙高は最後に改装工事を施されました。 昭和15年(1940年)3月に着手、昭和16年(1940年)4月完了。こうして妙高級4艦はこの姿で太平洋戦争を迎えることになったのです。 昭和16年(1941年)12月の開戦時、妙高は第2艦隊の本隊を成し、第5戦隊の旗艦として、フィリピン攻略を進める陸軍の船団の護衛作戦を展開。 作戦自体は順調に推移したもののダバオ港でB-17の空襲を受け2番砲塔付近に250Kg爆弾が命中、損傷し直ちに佐世保で修理を受けるハメになってしまいました。 修理は昭和17年(1942年)2月に完了、直ちに南方へ進出。折から展開されていたスラバヤ沖海戦の後半部に間に合い、2月27日の海戦で撃ち漏らした豪軽巡パースと英重巡エクゼターを3月1日の海戦にて撃沈する殊勲をあげています。 しかし、この海戦での日本艦隊は遠距離砲戦を挑んだためか命中率が極めて悪く、後に問題になっています。 なお、この海戦の勝利で連合軍側の海上兵力はジャワ、フィリピン方面からは一掃されたことになりました。 この後妙高は昭和17年(1942年)5月の珊瑚海海戦に翔鶴、瑞鶴の直衛として参加するも空母群より4Kmも前方に展開していたのと、米軍機が空母以外 に眼もくれなかったため被害もない代わりに一発の砲弾を撃つチャンスもなく終わってしまい、さらに同6月のミッドウェー海戦でも陸軍の上陸部隊を乗せた輸 送船団の護衛任務だったため戦いの機会はありませんでした。 ミッドウェー海戦後戦場は南太平洋に移り、特にガダルカナルの孤島を巡る戦いは熾烈を極めたのです。 海軍は多くの艦艇をこの近海に集中、米艦隊と激戦が繰り広げられ、結果として日米双方の艦艇がこの近海に眠ることになったのです。 妙高は昭和18年(1943年)11月、敵輸送船団を攻撃しようと南下した大森少将率いる第5戦隊と阻止しようとする米軽巡基幹の艦隊との間で起きたブー ゲンビル島沖海戦に第5戦隊旗艦として参加したのですが、この海戦は日本側の戦術が拙劣で、単縦陣にてT字戦法をとる敵軽巡艦隊に頭を押さえられ日本艦隊 は軽巡川内、駆逐艦初風を失い、多数の駆逐艦と2番艦羽黒が手酷く損傷した一方、米軽巡デンバーに損傷を与えたのみで完敗を喫しています。 この後妙高は起死回生を期したマリアナ沖海戦に参加し機動部隊旗艦の大鳳の護衛役を務めるも殿艦となったためか特に損傷を被っていません。 そして栄光の日本海軍の最後の組織的作戦であったレイテ沖海戦では栗田中将の第2艦隊ともども第5戦隊旗艦として参加し、米機動部隊の猛烈な航空攻撃を受 けつつシブヤン海を進撃したのですが、米空母イントレピッド搭載のアベンジャーの雷撃を受けて被雷、速度が15ノットに低下したため作戦行動ができず、避 退。唯一艦よろめきつつもブルネイ泊地に帰投したのです。 この後妙高はシンガポールに廻航され修理を受けますが、結局防空砲台とされて終戦を迎えることになります。 こうして妙高級最後の生き残りであった妙高も戦後の昭和21年(1946年)7月に英軍の手でマラッカ海峡に海没処分を受け、その一生を閉じたのです。 (要 目)最終時 基準排水量:13,000トン 水線長:201.70m 最大幅:20.8m 主 缶:ロ式艦本式重油専焼缶 12基 速 力:33.9ノット 航続力:14ノット 7,500海里 兵 装:20.3cm連装砲×5基 12.7mm 連装高角砲×4基 25mm三連装機銃×4基 25mm連装機銃×8基 25mm単装機銃×24基 4連装発射管×2基