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日向は伊勢型戦艦の2番艦として大正7年(1918年)4月に三菱長崎造船所で竣工しました。伊勢型戦艦は当時の財政逼 迫のあおりを受けて着工が大幅に遅れたため、本来扶桑型であったのをこのクラスはジュトランド沖海戦の戦訓に基づくと数々の欠点があることが判明、この欠 点を修正して改扶桑型として設計、着工されたのです。そのため外観は扶桑型と良く似ていますが、砲塔の配置に違いが見られ艦中央の3番、4番砲塔が後部煙 突後方に背負い式に配置されているのがポイントです。日向は直ちに伊勢共々第1艦隊第1戦隊に編入され扶桑、山城、伊勢、日向の超ド級36cm砲搭載戦艦 4艦の世界最強艦隊が出来上がりました。しかし、日向は大正8年(1919年)10月に3番砲塔の爆発事故を起こし、翌9年には予備艦となって遠距離砲戦 のための主砲仰角を30°まで引き上げるなどの小改造を逐次受けています。そして昭和2年(1927年)から前檣楼の強化工事がおこなわれ、射撃指揮所、 測的所、見張所、照射指揮所、檣楼司令所、各方位盤照準装置、測的盤などを配置してそれまでとは一変、今では見慣れた日本戦艦的な艦容となります。この改 装工事は昭和3年(1928年)完了。しかし昭和5年(1930年)には5番砲塔上に水上偵察機台を設置、さらに昭和8年(1933年)になると後部甲板 にカタパルトとクレーンを設置して水偵3機を搭載するなどの小改造が続けられます。こうして昭和の時代も10年を経た頃になると航空機の急激な進化で航 空、対航空兵装の強化及び砲戦,耐砲戦能力強化の必要に迫られ昭和11年(1936年)11 月より再び大改装工事に着手、8m測距儀、前檣楼頂部に10m測距儀、射撃方位盤を搭載、水線装甲帯の強化とバルジを装着するなど艦容が大きく変わりま す。そしれこの後、若干の小改造はあったもののこの姿で太平洋戦争に突入したのです。日向は開戦より終戦までほとんど伊勢と行動を共にしていますが、開戦 時には第1艦隊第2戦隊に所属して日向が戦隊旗艦を務めています。 昭和16年(1941年)12月8日の開戦当日、柱島泊地を出撃、勇躍太平洋へ……、と書けばカッコイイのですが、機動部隊援護とは名ばかりの勲章のため の出撃と言うのが真相です。この後戦艦群は空母機動部隊、航空部隊の活躍を尻目に柱島泊地で訓練に明け暮れる“柱島艦隊”と化してしまいます。日向は昭和 17年(1942年)5月、訓練中に5番砲塔の爆発事故を起こし、ミッドウェー作戦支援では5番砲塔基部を塞いで25mm対空機銃を載せた状態で出撃しま すが、ご存知の通りミッドウェー海戦では低速の戦艦群は為すすべもなく終わってしまいます。ミッドウェーで主力4空母を一時に失った海軍は戦艦を空母に改 造することを決定、白羽の矢が立ったのが5番砲塔のない日向と同型艦伊勢だったのです。扶桑、山城も候補に挙げられていましたが結局キャンセルになってい ます。そして5,6番砲塔を撤去、後部に飛行甲板を設けた前代未聞の半空母、半戦艦の航空戦艦が昭和18年(1943年)8月に完成します。搭載機は彗星 33型と瑞雲。伊勢、日向専用の634航空隊も編成されて猛訓練を開始しています。航空機の運用は発艦にはカタパルトを使用し、着艦ができないため近くの 空母乃至は陸上基地に戻るとされています。戦局は昭和18年には小康を保っていたものの翌昭和19年(1944年)になるとにわかに連合軍の攻勢が強ま り、6月のマリアナ沖海戦では精強を誇った空母航空部隊は壊滅してしまいました。そしてフィリピンのレイテ島に連合軍が上陸する事態に絶対国防圏を護るべ く10月、起死回生の捷一号作戦が発動されたのです。この作戦はレイテに上陸した連合軍を戦艦部隊を中心とした艦隊で攻撃、これを追い落とすと言うもので すが、ここで問題になるのがハルゼー麾下の米空母部隊。この部隊を吊り上げるためにマリアナで壊滅して航空機のほとんど無い裸の空母部隊を投入、囮として 使うという本末転倒の作戦だったのです。この囮艦隊に参加したのは瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田の四空母と634航空隊を取り上げられて裸になった伊勢、日向 だったのです。囮空母艦隊は小沢治三郎中将の指揮の元、見事にエンガノ岬沖にハルゼー艦隊を吊り上げ囮作戦は大成功だったのですが、この代償は大きく4空 母はすべて撃沈されてしまい、また突入艦隊も未だに謎とされているレイテ湾直前での転進で作戦自体は失敗してしまいました。しかし日向と伊勢は抜群の繰艦 と戦艦?並の対空砲火で奮戦、良く護衛任務を果たして無事生還したのです。その後いったん内地に帰還した日向はシンガポールへ陸兵を送り、帰途ガソリンを 含む戦略物資を満載してこれを本土へ届ける北号作戦を展開、薄氷を踏む思いで米潜水艦の網をくぐり抜けて無事呉軍港に帰還、作戦を成功させています。呉帰 着と共に予備艦となった日向はそのまま浮き砲台として航空攻撃に対処しましたが、動けなくてはいかんともしがたく、7月24日の大空襲でめった打ち的に攻 撃を受け、大破、炎上して26日早朝着底してしまったのです。そして戦後の昭和22年(1947年)7月、解体作業が完了して日本における戦艦の歴史は幕 を閉じたのでした。 (要 目)開戦時 基準排水量:36,000トン 全 長:215.80m 水線長:213.36m 最大幅:33.83m 主 機:艦本式タービン 4基4軸 出 力:80,000馬力 速 力:25.26ノット 航続力:16ノット7,870海里 兵 装:36cm連装砲×6基 14cm単装砲 20基12.7cm 連装高角砲×4基8門 25mm連装機銃×10基20門