【347】 1/700スケール プラモデル
日本海軍 重巡洋艦 青葉
価格:2,200円 (+消費税)
青葉は大正13年(1924年)2月に改古鷹級の1番艦として三菱長崎造船所で起工され、昭和2年(1927)9月に竣工しています。
古鷹級は平賀造船大佐のデザインで7,100トン級の軽巡洋艦としては他に例を見ない攻撃力を誇っていましたが、20cm単装砲6門という配置は用兵側の海軍としては歓迎できないものだったのです。
そのため青葉、衣笠の両艦は最初から20cm砲を連装砲塔3基に収めるという主砲配列にこだわりました。
この間の経緯として他に妥協しようとしない性格の平賀大佐を嫌った軍令部は平賀大佐を閑職に追いやり、後任の藤本大佐に改設計を委ねるという非常手段を敢えておこないこの青葉級を起工したのです。
しかし7,100トンクラスの巡洋艦に連装砲塔は荷が重い部分はありましたが、結果的により近代的な巡洋艦が誕生したことは間違いなかったようです。
こうして就役した青葉は第2艦隊、第5戦隊を古鷹、加古、衣笠と編成し中国、内海方面で主に訓練に明け暮れました。
青葉級は画期的な巡洋艦ではありましたが、やはり無理をして強武装を施している感は否めませんでした。
さらに時代は日進月歩。
この級の後にできた1万トン級の条約型巡洋艦に比しても見劣りがするようになってきたのです。
そこで、古鷹級に続いて近代化改装工事を施すことになります。
基本的な改装ポイントは古鷹級と同じですが、当初から連装砲塔を装備していたためこの部分は主砲の口径を20cmから20.3cmにボーリングし直すだけでした。
青葉の改装工事は昭和12年(1937年)10月に始まり3年を費やして昭和15年(1940年)10月に完了しています。
こうして青葉は第1艦隊、第6戦隊の旗艦として軍務に服し、翌昭和16年(1941年)5月には舷外電路を装着されて太平洋戦争を迎えることになります。
第6戦隊は青葉、衣笠、古鷹、加古の4艦で形成され、開戦当初より主に南洋方面に展開、ラバウル攻略作戦、ラエ、サラモア攻略作戦、ブーゲンビル島攻略作戦などを支援していますが、この間本格的な戦闘は経験していませんでした。
昭和17年(1942年)5月、珊瑚海海戦にMO攻略部隊主隊として参加するも空母祥鳳を失った後北方に避退しています。
一旦呉に帰港した青葉は再度ラバウルに進出、ガダルカナル島を巡る戦いに身を投じます。昭和17年(1942年)8月の第1次ソロモン海戦に参加し、鳥海、第6戦隊の各艦と共同して豪、米重巡洋艦4艦撃沈、1艦大破の武勲を揚げています。その直後の 10月にガダルカナル島ヘンダーソン飛行場砲撃を企図して進出した五藤少将率いる第6戦隊の旗艦青葉は、味方駆逐艦隊と誤認して待ち伏せていた米巡洋艦の猛射を浴びて大損害を被り、艦橋を直撃した砲弾で五藤少将は重傷を負い、後に戦死してしまいます。
このサボ島沖海戦で青葉を守らんとした古鷹が沈没、衣笠の奮戦でかろうじて青葉は沈没をまぬがれて生還します。
昭和17年(1942年)10月から翌2月までの約4ヶ月間の修理工事の後再びラバウルへ進出するも昭和18年(1943年)4月、メウエパセージで米軍の航空攻撃を受けて命中弾1、至近弾多数を喰らい擱座、カビエンにて応急修理の後トラック島を経て呉廻航、昭和18年(1943年)7月から11月まで再び約4ヶ月間の修理工事を受けます。
この時21号電探、対空機銃多数を装備しています。
また3番砲塔がサボ島沖海戦で被害にあって撤去、この場所には25mm連装機銃が配置されていたのをこの時の修理で復活しています。
この昭和18年暮れまでに古鷹、加古、衣笠の同型艦はすべて戦没、青葉のみが生き残り、第1南遣艦隊第16戦隊に配備されてシンガポールに進出します。
この後、シンガポールとリンガ泊地との間で数度の輸送任務をこなし、さらにバリクパパン、ペナン、タラカン、ダバオ、ソロンなどボルネオやフィリピン各地との間の輸送任務をおこなっていました。
こうしているうちに戦勢は日本に益々不利となり、マリアナ沖海戦でも敗北を喫した日本海軍は乾坤一擲の大勝負、捷1号作戦を発動します。
これに応じて第1遊撃隊として輸送船の護衛としてリンガ泊地を出港するのですが、マニラ湾口南西70カイリの地点で昭和19年(1944年)10月23日敵潜水艦の雷撃を受けて航行不能に陥る被害を被ってしまい、軽巡鬼怒に曳航されてマニラに引き返すことになります。
その翌日今度はマニラで米軍の空爆を受けて損傷、さらに29日にも空爆を受けたため高雄港を経由して昭和19年(1944年)12月に呉に帰港しますが、ことここに至っては修理もされず呉港外に繋留されたままとなります。
しかし、米軍が放っておく訳もなく、昭和20年(1945年)7月末の2度の空襲で艦尾が切断されて大破、着底して8月15日を迎えることになります。
こうして青葉はクラス唯一太平洋戦争を生き延びたのですが昭和21年(1946年)12月には解体されてその生涯を閉じたのです。
振り返ってみると戦運の少ない艦という感じがしますが、第1次ソロモン海戦の完勝で運を使い果たしてしまったのでしょうか。
(要 目)最終時
基準排水量:9,000トン
水線長:183.53m
最大幅:17.56m
主 缶:ロ式艦本式重油専焼缶 10基
速 力:33.43ノット
航続力:14ノット 8,223海里
兵 装:20.3cm連装砲×3基 12.7mm 単装高角砲×4 25mm三連装機銃×9基 25mm連装機銃×6基 61cm4連装発射管×2基
日本海軍 重巡洋艦 青葉
価格:2,200円 (+消費税)
青葉は大正13年(1924年)2月に改古鷹級の1番艦として三菱長崎造船所で起工され、昭和2年(1927)9月に竣工しています。
古鷹級は平賀造船大佐のデザインで7,100トン級の軽巡洋艦としては他に例を見ない攻撃力を誇っていましたが、20cm単装砲6門という配置は用兵側の海軍としては歓迎できないものだったのです。
そのため青葉、衣笠の両艦は最初から20cm砲を連装砲塔3基に収めるという主砲配列にこだわりました。
この間の経緯として他に妥協しようとしない性格の平賀大佐を嫌った軍令部は平賀大佐を閑職に追いやり、後任の藤本大佐に改設計を委ねるという非常手段を敢えておこないこの青葉級を起工したのです。
しかし7,100トンクラスの巡洋艦に連装砲塔は荷が重い部分はありましたが、結果的により近代的な巡洋艦が誕生したことは間違いなかったようです。
こうして就役した青葉は第2艦隊、第5戦隊を古鷹、加古、衣笠と編成し中国、内海方面で主に訓練に明け暮れました。
青葉級は画期的な巡洋艦ではありましたが、やはり無理をして強武装を施している感は否めませんでした。
さらに時代は日進月歩。
この級の後にできた1万トン級の条約型巡洋艦に比しても見劣りがするようになってきたのです。
そこで、古鷹級に続いて近代化改装工事を施すことになります。
基本的な改装ポイントは古鷹級と同じですが、当初から連装砲塔を装備していたためこの部分は主砲の口径を20cmから20.3cmにボーリングし直すだけでした。
青葉の改装工事は昭和12年(1937年)10月に始まり3年を費やして昭和15年(1940年)10月に完了しています。
こうして青葉は第1艦隊、第6戦隊の旗艦として軍務に服し、翌昭和16年(1941年)5月には舷外電路を装着されて太平洋戦争を迎えることになります。
第6戦隊は青葉、衣笠、古鷹、加古の4艦で形成され、開戦当初より主に南洋方面に展開、ラバウル攻略作戦、ラエ、サラモア攻略作戦、ブーゲンビル島攻略作戦などを支援していますが、この間本格的な戦闘は経験していませんでした。
昭和17年(1942年)5月、珊瑚海海戦にMO攻略部隊主隊として参加するも空母祥鳳を失った後北方に避退しています。
一旦呉に帰港した青葉は再度ラバウルに進出、ガダルカナル島を巡る戦いに身を投じます。昭和17年(1942年)8月の第1次ソロモン海戦に参加し、鳥海、第6戦隊の各艦と共同して豪、米重巡洋艦4艦撃沈、1艦大破の武勲を揚げています。その直後の 10月にガダルカナル島ヘンダーソン飛行場砲撃を企図して進出した五藤少将率いる第6戦隊の旗艦青葉は、味方駆逐艦隊と誤認して待ち伏せていた米巡洋艦の猛射を浴びて大損害を被り、艦橋を直撃した砲弾で五藤少将は重傷を負い、後に戦死してしまいます。
このサボ島沖海戦で青葉を守らんとした古鷹が沈没、衣笠の奮戦でかろうじて青葉は沈没をまぬがれて生還します。
昭和17年(1942年)10月から翌2月までの約4ヶ月間の修理工事の後再びラバウルへ進出するも昭和18年(1943年)4月、メウエパセージで米軍の航空攻撃を受けて命中弾1、至近弾多数を喰らい擱座、カビエンにて応急修理の後トラック島を経て呉廻航、昭和18年(1943年)7月から11月まで再び約4ヶ月間の修理工事を受けます。
この時21号電探、対空機銃多数を装備しています。
また3番砲塔がサボ島沖海戦で被害にあって撤去、この場所には25mm連装機銃が配置されていたのをこの時の修理で復活しています。
この昭和18年暮れまでに古鷹、加古、衣笠の同型艦はすべて戦没、青葉のみが生き残り、第1南遣艦隊第16戦隊に配備されてシンガポールに進出します。
この後、シンガポールとリンガ泊地との間で数度の輸送任務をこなし、さらにバリクパパン、ペナン、タラカン、ダバオ、ソロンなどボルネオやフィリピン各地との間の輸送任務をおこなっていました。
こうしているうちに戦勢は日本に益々不利となり、マリアナ沖海戦でも敗北を喫した日本海軍は乾坤一擲の大勝負、捷1号作戦を発動します。
これに応じて第1遊撃隊として輸送船の護衛としてリンガ泊地を出港するのですが、マニラ湾口南西70カイリの地点で昭和19年(1944年)10月23日敵潜水艦の雷撃を受けて航行不能に陥る被害を被ってしまい、軽巡鬼怒に曳航されてマニラに引き返すことになります。
その翌日今度はマニラで米軍の空爆を受けて損傷、さらに29日にも空爆を受けたため高雄港を経由して昭和19年(1944年)12月に呉に帰港しますが、ことここに至っては修理もされず呉港外に繋留されたままとなります。
しかし、米軍が放っておく訳もなく、昭和20年(1945年)7月末の2度の空襲で艦尾が切断されて大破、着底して8月15日を迎えることになります。
こうして青葉はクラス唯一太平洋戦争を生き延びたのですが昭和21年(1946年)12月には解体されてその生涯を閉じたのです。
振り返ってみると戦運の少ない艦という感じがしますが、第1次ソロモン海戦の完勝で運を使い果たしてしまったのでしょうか。
(要 目)最終時
基準排水量:9,000トン
水線長:183.53m
最大幅:17.56m
主 缶:ロ式艦本式重油専焼缶 10基
速 力:33.43ノット
航続力:14ノット 8,223海里
兵 装:20.3cm連装砲×3基 12.7mm 単装高角砲×4 25mm三連装機銃×9基 25mm連装機銃×6基 61cm4連装発射管×2基