【201】 1/700スケール プラモデル
日本海軍 航空母艦 赤城
価格:2,800円 (+消費税)
赤城は当時の八八艦隊構想(戦艦8隻、巡洋戦艦8隻)により巡洋戦艦として呉海軍工廠で大正9年(1920年)起工されました。赤城という山の名(本来は巡洋艦につける)が付いているのはそういう経緯からです。しかし1921年のワシントン条約締結に伴い戦艦を削減せざるを得なくなりました。一方で空母の枠には余裕があったため、ある程度進捗していた工事を中断、赤城は空母として完成させることになったのです。
当時、小型空母鳳翔しか建造の経験のなかった日本の造船界にとっては30,000トンクラスの大型空母の開発は至難の技で、かなりの困難が伴いました。
そしてとうとう竣工したのが三段甲板スタイルだったのです。
最上甲板は190mあり、発着艦両用に使えましたが、20cm砲を配置した中段の砲塔甲板は小型機発艦用、艦首まで伸びた最下段は大型の攻撃機発艦用とされたのです。
この配置は必ずしも日本独自ではなく、イギリス艦に二段甲板の例がありましたが、やはり運用上不便で、しかも航空機の進化が急速であったため10年ほどで改装工事を余儀なくされます。
三段甲板時代の赤城はほとんど第1航空艦隊に所属していましたが、実戦参加はなく空母運用の慣熟にあてられていたものと思われます。
なお、昭和3年(1928年)12月より約一年間艦長を務めたのは山本五十六大佐(当時)でした。
昭和10年(1935年)11月より佐世保海軍工廠において第2次近代化改装工事に着手、全通の平型甲板、島型艦橋をを持つ近代的な空母に生まれ変わり、昭和13年(1938年)9月改装完了、見慣れた赤城になります。
新装なった赤城は再び第1航空艦隊第1航空戦隊に配属となり折から激しくなった日中戦争支援のため中国方面に展開しています。
そして昭和16年(1941年)になると日米間の雲行きが怪しくなり戦争へと急速に傾いてゆきます。
この頃赤城は一航艦、通称南雲艦隊の旗艦となり真珠湾攻撃の準備に没頭するようになります。
同年11月択捉島単冠湾に密かに集結した南雲艦隊は26日に抜錨、北方航路をたどって真珠湾北方へ忍び寄ります。
この間日米開戦を意味する「ニイタカヤマノボレ」の暗号電を受け、昭和16年(1941年)12月8日(現地時間7日)ハワイ、真珠湾を奇襲、在泊艦艇、特に戦艦群を多数撃沈破して大戦果をあげています。
攻撃隊の総指揮官は赤城の飛行隊長淵田中佐でした。
凱旋した一航艦は年が明けると直ちにトラック島へ進出、ラバウル、カビエン、ポートダーウィンなどを次々と空襲、さらに向かう所敵無しの状態でインド洋に入り、イギリスの要衝セイロン島コロンボ、ツリンコマリを襲い在泊艦艇に損害を与えています。
この時英重巡ドーセットシャー、コーンウォール、さらに軽空母ハーミズを撃沈するという殊勲をあげていますが、艦爆隊の放った250Kg爆弾の実に80%以上が命中という驚異の命中率(演習ではなく実戦で)を記録しています。
この頃の1航戦(赤城、加賀)、2航戦(蒼龍、飛龍)の搭乗員の技量は間違いなく世界一であったと思われます。
インド洋作戦終了直後の昭和17年(1942年)4月18日、かねてから存在の気になっていた米空母部隊があろうことかB-25をもって日本本土に空襲をかけてきたのです。
このため米空母を誘い出し一気に壊滅させるための作戦としてミッドウェー作戦が発動されました。
インド洋からもどった南雲艦隊は整備、補給もそこそこにミッドウェーへと出撃してゆきます。
この時の南雲艦隊は飛行隊長の淵田中佐が虫垂炎で出撃不能、航空参謀の源田中佐も高熱を発しておりいわば飛車角落ちで戦に臨んだようなものでした。
昭和17年(1942年)6月5日、ミッドウェー島攻撃部隊はすでに暗号を解読して待ち構える敵の中を強襲するも成果が上がらず、攻撃隊指揮官飛龍の友永大尉は“第2次攻撃の要有りと認む。”の電信を発しました。
これを受けて司令部は敵空母出現に備えて待機していた艦爆、艦攻に陸用爆弾への転換を指令します。
そこへ遅れて発進した重巡利根の偵察機から敵空母発見の報が飛び込んで来ました。
陸用爆弾で空母を攻撃するか、再び雷装するかを逡巡した1航艦司令部は2航戦山口多聞少将の“直ちに発進の要有りと認む”の意見具申を無視して再度対艦兵装への転換を指令します。
このため各空母は大混乱、はずした爆弾が格納庫にゴロゴロしている状態だったのです。そこへ米空母から発進した艦攻隊が来襲、巧みな繰艦で回避したのですが、上空支援の戦闘機が低空に集まってしまい、上空にポッカリと穴が開いてしまったのです。
そのわずかな間隙を突いてSBD-3ドーントレスが急降下。
見張り員の「上空,敵機、急降下!」の叫び声は爆弾の炸裂音に掻き消されていまいました。
こうして、たった2発の直撃弾が、転がっていた多くの爆弾の誘発を誘い赤城は紅蓮の炎に包まれてしまったのです。
赤城は味方駆逐艦の魚雷の介錯を受け多くの犠牲者をのせたままミッドウェー北方の海へとその姿を没したのです。
(要 目)開戦時
基準排水量:36,500トン 飛行甲板長:249.2m×30.5m 水線長:250.36m
最大幅:31.32m
主 機:技本式ギアード・タービン 4軸 出 力:133,000馬力 速 力:31.2ノット
航続力:18ノット10,000海里
兵 装:20cm単装砲×6基 12cm連装高角砲×6門 25mm連装機銃×14
搭載機:常用66機(零式艦上戦闘機21型、九九式艦上爆撃機11型。九七式三号艦上攻撃機)補用25機
日本海軍 航空母艦 赤城
価格:2,800円 (+消費税)
赤城は当時の八八艦隊構想(戦艦8隻、巡洋戦艦8隻)により巡洋戦艦として呉海軍工廠で大正9年(1920年)起工されました。赤城という山の名(本来は巡洋艦につける)が付いているのはそういう経緯からです。しかし1921年のワシントン条約締結に伴い戦艦を削減せざるを得なくなりました。一方で空母の枠には余裕があったため、ある程度進捗していた工事を中断、赤城は空母として完成させることになったのです。
当時、小型空母鳳翔しか建造の経験のなかった日本の造船界にとっては30,000トンクラスの大型空母の開発は至難の技で、かなりの困難が伴いました。
そしてとうとう竣工したのが三段甲板スタイルだったのです。
最上甲板は190mあり、発着艦両用に使えましたが、20cm砲を配置した中段の砲塔甲板は小型機発艦用、艦首まで伸びた最下段は大型の攻撃機発艦用とされたのです。
この配置は必ずしも日本独自ではなく、イギリス艦に二段甲板の例がありましたが、やはり運用上不便で、しかも航空機の進化が急速であったため10年ほどで改装工事を余儀なくされます。
三段甲板時代の赤城はほとんど第1航空艦隊に所属していましたが、実戦参加はなく空母運用の慣熟にあてられていたものと思われます。
なお、昭和3年(1928年)12月より約一年間艦長を務めたのは山本五十六大佐(当時)でした。
昭和10年(1935年)11月より佐世保海軍工廠において第2次近代化改装工事に着手、全通の平型甲板、島型艦橋をを持つ近代的な空母に生まれ変わり、昭和13年(1938年)9月改装完了、見慣れた赤城になります。
新装なった赤城は再び第1航空艦隊第1航空戦隊に配属となり折から激しくなった日中戦争支援のため中国方面に展開しています。
そして昭和16年(1941年)になると日米間の雲行きが怪しくなり戦争へと急速に傾いてゆきます。
この頃赤城は一航艦、通称南雲艦隊の旗艦となり真珠湾攻撃の準備に没頭するようになります。
同年11月択捉島単冠湾に密かに集結した南雲艦隊は26日に抜錨、北方航路をたどって真珠湾北方へ忍び寄ります。
この間日米開戦を意味する「ニイタカヤマノボレ」の暗号電を受け、昭和16年(1941年)12月8日(現地時間7日)ハワイ、真珠湾を奇襲、在泊艦艇、特に戦艦群を多数撃沈破して大戦果をあげています。
攻撃隊の総指揮官は赤城の飛行隊長淵田中佐でした。
凱旋した一航艦は年が明けると直ちにトラック島へ進出、ラバウル、カビエン、ポートダーウィンなどを次々と空襲、さらに向かう所敵無しの状態でインド洋に入り、イギリスの要衝セイロン島コロンボ、ツリンコマリを襲い在泊艦艇に損害を与えています。
この時英重巡ドーセットシャー、コーンウォール、さらに軽空母ハーミズを撃沈するという殊勲をあげていますが、艦爆隊の放った250Kg爆弾の実に80%以上が命中という驚異の命中率(演習ではなく実戦で)を記録しています。
この頃の1航戦(赤城、加賀)、2航戦(蒼龍、飛龍)の搭乗員の技量は間違いなく世界一であったと思われます。
インド洋作戦終了直後の昭和17年(1942年)4月18日、かねてから存在の気になっていた米空母部隊があろうことかB-25をもって日本本土に空襲をかけてきたのです。
このため米空母を誘い出し一気に壊滅させるための作戦としてミッドウェー作戦が発動されました。
インド洋からもどった南雲艦隊は整備、補給もそこそこにミッドウェーへと出撃してゆきます。
この時の南雲艦隊は飛行隊長の淵田中佐が虫垂炎で出撃不能、航空参謀の源田中佐も高熱を発しておりいわば飛車角落ちで戦に臨んだようなものでした。
昭和17年(1942年)6月5日、ミッドウェー島攻撃部隊はすでに暗号を解読して待ち構える敵の中を強襲するも成果が上がらず、攻撃隊指揮官飛龍の友永大尉は“第2次攻撃の要有りと認む。”の電信を発しました。
これを受けて司令部は敵空母出現に備えて待機していた艦爆、艦攻に陸用爆弾への転換を指令します。
そこへ遅れて発進した重巡利根の偵察機から敵空母発見の報が飛び込んで来ました。
陸用爆弾で空母を攻撃するか、再び雷装するかを逡巡した1航艦司令部は2航戦山口多聞少将の“直ちに発進の要有りと認む”の意見具申を無視して再度対艦兵装への転換を指令します。
このため各空母は大混乱、はずした爆弾が格納庫にゴロゴロしている状態だったのです。そこへ米空母から発進した艦攻隊が来襲、巧みな繰艦で回避したのですが、上空支援の戦闘機が低空に集まってしまい、上空にポッカリと穴が開いてしまったのです。
そのわずかな間隙を突いてSBD-3ドーントレスが急降下。
見張り員の「上空,敵機、急降下!」の叫び声は爆弾の炸裂音に掻き消されていまいました。
こうして、たった2発の直撃弾が、転がっていた多くの爆弾の誘発を誘い赤城は紅蓮の炎に包まれてしまったのです。
赤城は味方駆逐艦の魚雷の介錯を受け多くの犠牲者をのせたままミッドウェー北方の海へとその姿を没したのです。
(要 目)開戦時
基準排水量:36,500トン 飛行甲板長:249.2m×30.5m 水線長:250.36m
最大幅:31.32m
主 機:技本式ギアード・タービン 4軸 出 力:133,000馬力 速 力:31.2ノット
航続力:18ノット10,000海里
兵 装:20cm単装砲×6基 12cm連装高角砲×6門 25mm連装機銃×14
搭載機:常用66機(零式艦上戦闘機21型、九九式艦上爆撃機11型。九七式三号艦上攻撃機)補用25機