【117】 1/700スケール プラモデル
戦艦 伊勢
価格:3,200円 (+消費税)
伊勢型戦艦は本来扶桑型戦艦の3番艦として計画されたのですが、当時の政府の財政状況から着工が遅れてしまいました。
その間に扶桑型の欠点を修正し、さらに対米戦艦対策を盛り込んだ改扶桑型となり、大正4年(1915年)ようやく神戸川崎造船所で起工されました。大正6年(1917年)12月竣工、同時に艦隊に編入されています。
この頃の戦艦はイギリスに範をとっていたため一見イギリスの戦艦と見間違う外観をしており、日本独自の艦容を持つのはもう少し後のこととなります。
また、改扶桑型として設計されたため扶桑型ともよく似ていますが艦中央部3番、4番砲塔が扶桑型では煙突をはさんでいるのに対して伊勢型では後部煙突後方に背負い式に配置されているのが大きな違いです。
伊勢は竣工後、呉鎮守府に入籍、翌大正7年(1918年)4月には第1艦隊第1戦隊に編入され扶桑、山城、伊勢、日向の超ド級36cm砲搭載4艦の世界最強艦隊ができあがりました。
この間シベリア出兵に伴う支援作戦で北方海域へ出動したとされています。
この後、伊勢は幾度か小改造を加えつつ、昭和2年(1927年)本格的な前檣楼の改装工事に着手、射撃指揮所、測的所、見張所、照射指揮所、檣楼司令所、各方位盤照準装置、測的盤などを前檣楼に配置し、見慣れた日本戦艦的艦橋となりました。
さらにこの後5番砲塔上に水偵搭載台を設置したり、後部甲板上にカタパルトを配置するなど航空兵装を順次充実させています。
こうして昭和の時代になりますと各国の戦艦の能力が上がってき、さらに航空機の能力は飛躍的に上昇してゆきます。
これに対抗するために昭和10年(1935年)砲戦能力の強化、水平、水中防御の改善、速力の向上などを目的とした近代化工事に着手します。
伊勢は一連の戦艦近代化工事を最後に受けたため、その成果がすべて投入され長門型戦艦に次ぐ有力艦になったとされています。
伊勢はこうして防空指揮所の増設などの小改造はあったもののこの状態で太平洋戦争に突入します。
昭和16年(1941年)12月の真珠湾攻撃では「機動部隊の引き揚げを援護する」目的で攻撃当日の12月8日に豊後水道を出撃し太平洋に出ています。
これは機動部隊に損害が出たときのためとされていますが、実は勲章のためといのが真実のようです。
もちろん機動部隊援護の必要などなく単なる大名行列に終わってしまっています。
この後、機動部隊が敵太平洋艦隊を撃滅させてしまったため当面の敵がいなくなり戦艦部隊は単に訓練に明け暮れる日々ともなってしまいました。
そして昭和17年(1942年)6月のミッドウェー海戦でも陽動のアリューシャン作戦の支援艦として出撃しますが今回も何らなすことなく終わっています。
ハワイ、インド洋、珊瑚海、ミッドウェーと戦いの様相は空母と航空機の時代になってしまい、戦艦の時代は急速に終わろうとしていました。
さて、ミッドウェーで主力の4空母を失った海軍はその補用として存在価値の少なくなった鈍足の戦艦に飛行甲板を設けて航空戦艦とする事を決定、伊勢、日向にこの改装を施すこととしたのです。
改装工事は昭和18年(1943年)8月に完了、世界でも類を見ない半戦艦、半空母の航空戦艦が誕生したのです。
搭載機は彗星とと瑞雲。発艦はカタパルトを用い、着艦ができないため彗星は他の空母または陸上基地に収容、瑞雲は着水、デリックにて収容というものでした。
このため航空戦艦伊勢、日向専用の航空隊、634航空隊も編成されています。
こうしているうちにも戦局は悪化の一途をたどり、マリアナ沖海戦では空母航空部隊が壊滅。
そしてアメリカ軍のフィリピン侵攻が始まり、起死回生の捷一号作戦が発令されると、昭和19年(1944年)10月、伊勢は小沢治三郎中将指揮下の空母囮艦隊に空母?として出撃します。
もっともこの時伊勢は634空を持たず格納庫には一機の航空機もありませんでしたので空母とは言えなかったかもしれませんが。小沢艦隊は目的通りエンガノ岬沖にハルゼーの艦隊を引きつけるのに成功しますが、その代償も大きく、第3航空艦隊の瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田の四空母を喪失してしまいます。
この海戦で伊勢は瑞鶴、瑞鳳を護って奮戦、抜群の繰艦で敵弾を次々と交わし数発の至近弾を受けたのみ、損害軽微で無事生還を果たしています。
この後一旦本土に戻った伊勢はシンガポールへ回航、ここで多量のガソリンを始め重要物資を満載。昭和 20年(1945年)2月10日シンガポールを出港した伊勢は、米潜水艦の跳梁する海を薄氷の思いで突破して2月20日呉へと無事帰還、この北号作戦を見事に成功させています。
呉帰着後は燃料不足で戦艦として使うことができないため予備艦に編入され、浮き砲台として呉港内に繋留されます。
予備艦とは言っても元は戦艦、米軍が放っておく訳もなく、動かないまま数次の空襲を受け滅多打ちに合い、昭和20年(1945年)7月28日の空襲で大破、着底してしまいました。
この時伊勢が放った主砲弾は四百数十発。そのうちの最後の一発が停弾してしまい、ようやくの思いで発射したのですがこの一発が帝国海軍戦艦の放った最後の主砲弾だったとのことです。
(要 目)最終時
基準排水量:35,200トン 全 長:219.62m 水線長:213.36m 最大幅:33.83m
主 機:艦本式タービン 4基4軸 出 力:80,000馬力 速 力:25.3ノット
航続力:16ノット9,500海里 兵 装:36cm連装砲×4基 12.7cm 連装高角砲×8基16門 25mm3連装機銃×31基93門 25mm単装機銃×11基
戦艦 伊勢
価格:3,200円 (+消費税)
伊勢型戦艦は本来扶桑型戦艦の3番艦として計画されたのですが、当時の政府の財政状況から着工が遅れてしまいました。
その間に扶桑型の欠点を修正し、さらに対米戦艦対策を盛り込んだ改扶桑型となり、大正4年(1915年)ようやく神戸川崎造船所で起工されました。大正6年(1917年)12月竣工、同時に艦隊に編入されています。
この頃の戦艦はイギリスに範をとっていたため一見イギリスの戦艦と見間違う外観をしており、日本独自の艦容を持つのはもう少し後のこととなります。
また、改扶桑型として設計されたため扶桑型ともよく似ていますが艦中央部3番、4番砲塔が扶桑型では煙突をはさんでいるのに対して伊勢型では後部煙突後方に背負い式に配置されているのが大きな違いです。
伊勢は竣工後、呉鎮守府に入籍、翌大正7年(1918年)4月には第1艦隊第1戦隊に編入され扶桑、山城、伊勢、日向の超ド級36cm砲搭載4艦の世界最強艦隊ができあがりました。
この間シベリア出兵に伴う支援作戦で北方海域へ出動したとされています。
この後、伊勢は幾度か小改造を加えつつ、昭和2年(1927年)本格的な前檣楼の改装工事に着手、射撃指揮所、測的所、見張所、照射指揮所、檣楼司令所、各方位盤照準装置、測的盤などを前檣楼に配置し、見慣れた日本戦艦的艦橋となりました。
さらにこの後5番砲塔上に水偵搭載台を設置したり、後部甲板上にカタパルトを配置するなど航空兵装を順次充実させています。
こうして昭和の時代になりますと各国の戦艦の能力が上がってき、さらに航空機の能力は飛躍的に上昇してゆきます。
これに対抗するために昭和10年(1935年)砲戦能力の強化、水平、水中防御の改善、速力の向上などを目的とした近代化工事に着手します。
伊勢は一連の戦艦近代化工事を最後に受けたため、その成果がすべて投入され長門型戦艦に次ぐ有力艦になったとされています。
伊勢はこうして防空指揮所の増設などの小改造はあったもののこの状態で太平洋戦争に突入します。
昭和16年(1941年)12月の真珠湾攻撃では「機動部隊の引き揚げを援護する」目的で攻撃当日の12月8日に豊後水道を出撃し太平洋に出ています。
これは機動部隊に損害が出たときのためとされていますが、実は勲章のためといのが真実のようです。
もちろん機動部隊援護の必要などなく単なる大名行列に終わってしまっています。
この後、機動部隊が敵太平洋艦隊を撃滅させてしまったため当面の敵がいなくなり戦艦部隊は単に訓練に明け暮れる日々ともなってしまいました。
そして昭和17年(1942年)6月のミッドウェー海戦でも陽動のアリューシャン作戦の支援艦として出撃しますが今回も何らなすことなく終わっています。
ハワイ、インド洋、珊瑚海、ミッドウェーと戦いの様相は空母と航空機の時代になってしまい、戦艦の時代は急速に終わろうとしていました。
さて、ミッドウェーで主力の4空母を失った海軍はその補用として存在価値の少なくなった鈍足の戦艦に飛行甲板を設けて航空戦艦とする事を決定、伊勢、日向にこの改装を施すこととしたのです。
改装工事は昭和18年(1943年)8月に完了、世界でも類を見ない半戦艦、半空母の航空戦艦が誕生したのです。
搭載機は彗星とと瑞雲。発艦はカタパルトを用い、着艦ができないため彗星は他の空母または陸上基地に収容、瑞雲は着水、デリックにて収容というものでした。
このため航空戦艦伊勢、日向専用の航空隊、634航空隊も編成されています。
こうしているうちにも戦局は悪化の一途をたどり、マリアナ沖海戦では空母航空部隊が壊滅。
そしてアメリカ軍のフィリピン侵攻が始まり、起死回生の捷一号作戦が発令されると、昭和19年(1944年)10月、伊勢は小沢治三郎中将指揮下の空母囮艦隊に空母?として出撃します。
もっともこの時伊勢は634空を持たず格納庫には一機の航空機もありませんでしたので空母とは言えなかったかもしれませんが。小沢艦隊は目的通りエンガノ岬沖にハルゼーの艦隊を引きつけるのに成功しますが、その代償も大きく、第3航空艦隊の瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田の四空母を喪失してしまいます。
この海戦で伊勢は瑞鶴、瑞鳳を護って奮戦、抜群の繰艦で敵弾を次々と交わし数発の至近弾を受けたのみ、損害軽微で無事生還を果たしています。
この後一旦本土に戻った伊勢はシンガポールへ回航、ここで多量のガソリンを始め重要物資を満載。昭和 20年(1945年)2月10日シンガポールを出港した伊勢は、米潜水艦の跳梁する海を薄氷の思いで突破して2月20日呉へと無事帰還、この北号作戦を見事に成功させています。
呉帰着後は燃料不足で戦艦として使うことができないため予備艦に編入され、浮き砲台として呉港内に繋留されます。
予備艦とは言っても元は戦艦、米軍が放っておく訳もなく、動かないまま数次の空襲を受け滅多打ちに合い、昭和20年(1945年)7月28日の空襲で大破、着底してしまいました。
この時伊勢が放った主砲弾は四百数十発。そのうちの最後の一発が停弾してしまい、ようやくの思いで発射したのですがこの一発が帝国海軍戦艦の放った最後の主砲弾だったとのことです。
(要 目)最終時
基準排水量:35,200トン 全 長:219.62m 水線長:213.36m 最大幅:33.83m
主 機:艦本式タービン 4基4軸 出 力:80,000馬力 速 力:25.3ノット
航続力:16ノット9,500海里 兵 装:36cm連装砲×4基 12.7cm 連装高角砲×8基16門 25mm3連装機銃×31基93門 25mm単装機銃×11基