【111】 1/700スケール プラモデル
日本海軍 高速戦艦 榛名
価格:2,800円 (+消費税)
戦艦榛名は金剛級巡洋戦艦として生を受け、度重なる改装を受けつつも太平洋戦争を生き延びた歴戦の古強者です。
明治45年(1912年)ほぼ時を同じくして民間の神戸川崎造船所に発注された金剛級4番艦榛名は三菱長崎造船所の霧島と競い合うように建造されました。
途中、機関繋留運転に遅れが生じた責を負って川崎の造船責任者である篠田技師が割腹自殺を図るという悲劇を交えつつ、1915年4月19日、霧島と同日に竣工したのです。
榛名は直ちに就役、第2艦隊第3戦隊に編入され金剛級4艦による最強、最速の巡洋戦艦部隊が出来上がりました。
大正9年(1920年)シベリア出兵支援のため北海道方面に出動していた折、第1砲塔右砲にとう内爆発が発生、死傷者15名の事故を起こしています。
この事故で第1砲塔の天蓋の一部が海中に吹き飛ぶなどの被害が出たため、この修理も兼ねて他の金剛級3艦に先駆けて大正13年(1924年)第1次改装工事に入ります。
この改装工事は極めて多岐に渡り、榛名は都合8年間現役を離れることになります。
外観上では前檣楼が大幅に変わり、後の日本戦艦の雛型となったことが最大のポイントでしょう。
この結果最大速度が25ノットに低下したため、巡洋戦艦から戦艦へと類別変更がおこなわれたのは他の金剛級3艦と同じです。
第1次改装工事は昭和3年(1928年)7月に完了しますが、この後もたびたび小改造が施された後、昭和8年(1933年)には再び第2次改装工事に着手します。
この工事の目的は30ノットの優速を取り戻すこと。
そのため缶の変更と艦尾の延長を施して、ほぼ目的を達成しています。
外観上では前檣楼にガーターが追加され後檣も低くなり第4砲塔上に空中線支柱が設けられています。
改装なった榛名は昭和9年(1934年)11月に第1艦隊第1戦隊へと編入され、昭和11年(1936年)6月には改装完了した霧島と第3戦隊を編成しています。
榛名はこの後も度々小改造が施されていますが、開戦時まで中国戦線支援のために台湾、中国、香港方面に出動しています。
さて、昭和16年(1941年)12月の開戦時には榛名は金剛と共に英極東艦隊の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、レパルスへの備えとしてマレー方面に展開。
その後南雲艦隊のインド洋作戦、セイロン島襲撃に直衛艦として参加しています。
インド洋より帰着後、ミッドウェー島攻略作戦が発令され、南雲艦隊の直衛艦として出動するも輪形陣の不備により防御火網が濃密にならず直衛任務は結果的に失敗に終わっています。この時は沈んだ空母飛龍の乗員救助をおこない、さらに米海軍機の攻撃で至近弾2発を受け若干の損害も被ってます。
ミッドウェー敗戦後は風雲急を告げるソロモン海域へ進出、昭和17年(1942年)10月栗田建夫中将に率いられてガダルカナル島ヘンダーソン飛行場に挺身攻撃を掛け、金剛と共に合計918発の36cm砲弾を叩き込み一面を火の海と化して作戦を大成功のうちに完了しています。
その後はトラック島と内地を往復し、ミッドウェーの戦訓により対空機銃を増設、全身針鼠のような防御火網を纏います。
あ号作戦発動により惹起した昭和19年(1944年)6月のマリアナ沖海戦に参加するも、戦いはすでに空母のもの。
戦艦の出る幕はありませんでした。米海軍機の攻撃で直撃弾2発を喰らい損傷したのみで終わっています。
そして10月のレイテ決戦では小沢おとり空母艦隊の奮戦で栗田中将に率いられた戦艦、重巡艦隊は幸運にもサンベルナルジノ海峡を突破してサマール沖に敵空母群を発見、猛追するもガンビアベイ一艦を沈めたのみで、無念の反転、帰投するに至ります。
この時米海軍機の空襲で至近弾を受けて若干の損傷を被りました。
この修理のため榛名は呉軍港に回航されてそのまま一種の浮き砲台のようになり、数度の空襲で着底、そのまま終戦を迎えています。
終戦翌年の昭和21年(1946年)には解体されて長かった生涯を閉じたのです。
榛名は開戦から太平洋狭しと走り回って活躍し、そして生き残った唯一の戦艦だったのです。
(要 目)開戦時
基準排水量:32,156トン 全 長:222.00m 水線長:219.61m 最大幅:31.02m
主 機:艦本式タービン 4基4軸 出 力:136,000馬力 速 力:30.5ノット
航続力:18ノット10,000海里 兵 装:36cm連装砲×4基 15cm単装砲×14門 12.7cm 連装高角砲×4基8門 25mm連装機銃×10基20門
日本海軍 高速戦艦 榛名
価格:2,800円 (+消費税)
戦艦榛名は金剛級巡洋戦艦として生を受け、度重なる改装を受けつつも太平洋戦争を生き延びた歴戦の古強者です。
明治45年(1912年)ほぼ時を同じくして民間の神戸川崎造船所に発注された金剛級4番艦榛名は三菱長崎造船所の霧島と競い合うように建造されました。
途中、機関繋留運転に遅れが生じた責を負って川崎の造船責任者である篠田技師が割腹自殺を図るという悲劇を交えつつ、1915年4月19日、霧島と同日に竣工したのです。
榛名は直ちに就役、第2艦隊第3戦隊に編入され金剛級4艦による最強、最速の巡洋戦艦部隊が出来上がりました。
大正9年(1920年)シベリア出兵支援のため北海道方面に出動していた折、第1砲塔右砲にとう内爆発が発生、死傷者15名の事故を起こしています。
この事故で第1砲塔の天蓋の一部が海中に吹き飛ぶなどの被害が出たため、この修理も兼ねて他の金剛級3艦に先駆けて大正13年(1924年)第1次改装工事に入ります。
この改装工事は極めて多岐に渡り、榛名は都合8年間現役を離れることになります。
外観上では前檣楼が大幅に変わり、後の日本戦艦の雛型となったことが最大のポイントでしょう。
この結果最大速度が25ノットに低下したため、巡洋戦艦から戦艦へと類別変更がおこなわれたのは他の金剛級3艦と同じです。
第1次改装工事は昭和3年(1928年)7月に完了しますが、この後もたびたび小改造が施された後、昭和8年(1933年)には再び第2次改装工事に着手します。
この工事の目的は30ノットの優速を取り戻すこと。
そのため缶の変更と艦尾の延長を施して、ほぼ目的を達成しています。
外観上では前檣楼にガーターが追加され後檣も低くなり第4砲塔上に空中線支柱が設けられています。
改装なった榛名は昭和9年(1934年)11月に第1艦隊第1戦隊へと編入され、昭和11年(1936年)6月には改装完了した霧島と第3戦隊を編成しています。
榛名はこの後も度々小改造が施されていますが、開戦時まで中国戦線支援のために台湾、中国、香港方面に出動しています。
さて、昭和16年(1941年)12月の開戦時には榛名は金剛と共に英極東艦隊の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、レパルスへの備えとしてマレー方面に展開。
その後南雲艦隊のインド洋作戦、セイロン島襲撃に直衛艦として参加しています。
インド洋より帰着後、ミッドウェー島攻略作戦が発令され、南雲艦隊の直衛艦として出動するも輪形陣の不備により防御火網が濃密にならず直衛任務は結果的に失敗に終わっています。この時は沈んだ空母飛龍の乗員救助をおこない、さらに米海軍機の攻撃で至近弾2発を受け若干の損害も被ってます。
ミッドウェー敗戦後は風雲急を告げるソロモン海域へ進出、昭和17年(1942年)10月栗田建夫中将に率いられてガダルカナル島ヘンダーソン飛行場に挺身攻撃を掛け、金剛と共に合計918発の36cm砲弾を叩き込み一面を火の海と化して作戦を大成功のうちに完了しています。
その後はトラック島と内地を往復し、ミッドウェーの戦訓により対空機銃を増設、全身針鼠のような防御火網を纏います。
あ号作戦発動により惹起した昭和19年(1944年)6月のマリアナ沖海戦に参加するも、戦いはすでに空母のもの。
戦艦の出る幕はありませんでした。米海軍機の攻撃で直撃弾2発を喰らい損傷したのみで終わっています。
そして10月のレイテ決戦では小沢おとり空母艦隊の奮戦で栗田中将に率いられた戦艦、重巡艦隊は幸運にもサンベルナルジノ海峡を突破してサマール沖に敵空母群を発見、猛追するもガンビアベイ一艦を沈めたのみで、無念の反転、帰投するに至ります。
この時米海軍機の空襲で至近弾を受けて若干の損傷を被りました。
この修理のため榛名は呉軍港に回航されてそのまま一種の浮き砲台のようになり、数度の空襲で着底、そのまま終戦を迎えています。
終戦翌年の昭和21年(1946年)には解体されて長かった生涯を閉じたのです。
榛名は開戦から太平洋狭しと走り回って活躍し、そして生き残った唯一の戦艦だったのです。
(要 目)開戦時
基準排水量:32,156トン 全 長:222.00m 水線長:219.61m 最大幅:31.02m
主 機:艦本式タービン 4基4軸 出 力:136,000馬力 速 力:30.5ノット
航続力:18ノット10,000海里 兵 装:36cm連装砲×4基 15cm単装砲×14門 12.7cm 連装高角砲×4基8門 25mm連装機銃×10基20門