'php'/*Template Name: 【ページ】"製品紹介"*/?>
霧島は金剛級巡洋戦艦の4番艦として明治45(1912年)年起工されました。 一番艦の金剛がイギリスのヴィッカース造船所、2番艦の比叡が横須賀海軍工廠に発注されたのに対し3番艦の榛名と霧島は民間の造船所である神戸川崎造船所、三菱長崎造船所で建造されることになりました。 三菱長崎はこの巨艦の建造のために船台の延長、ガントリークレーンの新設などの基盤整備をおこなった後に建造に着手しています。 霧島の建造はライバル意識を持って神戸川崎と競うように進捗し、結局大正4年(1915年)4月19日の同日に2艦とも竣工しています。 同年12月には霧島、榛名を含む金剛級巡洋戦艦4艦による第2艦隊第3戦隊が編成され、世界最強の巡洋戦艦艦隊が出現したのです。 しかし、1918年に惹起した英独艦隊によるジュトランド沖海戦は装甲を犠牲にして速度を得ようとした巡洋戦艦が高角度で落下する砲弾に極めて弱いという事実が露呈してしまいました。 これ以外にも水線帯の防御の重要性もあり1927年霧島は榛名に次いで第一次近代化改装が施されることになります。 丸三年を費やして加えられた改装は主に缶を重油専焼缶に換装、さらに防御力の強化でした。この結果排水量が増加したことやバルジの装着で速度が低下、巡洋戦艦から戦艦へと艦種が変更されることになりました。 しかし、海軍としては本来の巡洋戦艦の持ち味である速度、機動性にこだわり、わずか数年で第二次近代化改装に着手する事になります。 この改装は主に缶の強化に費やされ、さらに高性能化する航空機に対して航空兵装、対航空兵装も合わせて強化されています。 霧島の改装工事は榛名に次いで二番目、昭和11年(1936年)6月に完了、直ちに榛名と第1艦隊第3戦隊を編成し30ノットの高速戦艦部隊となりました。 太平洋戦争では鈍足の戦艦は働く場がなくなっていましたが、金剛級4艦はこの高速の故に獅子奮迅の活躍をする事になります。 昭和16年(1941年)12月8日、開戦劈頭の真珠湾攻撃では高速を活かして良く南雲艦隊の直衛を努め、以後昭和17年(1942年)6月のミッドウェー海戦まで南雲艦隊と行動を共にしています。 直衛任務を果たせず惨敗のミッドウェーから帰投した霧島は、戦備を整え南太平洋ソロモン海域へ出動、1942年8月の南太平洋海戦では再度南雲艦隊(ただし新編成った翔鶴、瑞鶴基幹の第3艦隊)の直衛任務に就きました。 1942年後半、ガダルカナル戦局が重大になり、1942年11月12日、阿部弘毅中将率いるガ島挺身攻撃が米海軍によって阻止され比叡が失われると、連 合艦隊司令部は直ちに近藤信竹中将に再びガダルカナル島ヘンダーソン飛行場挺身砲撃を指令、霧島、愛宕、高尾を基幹とする第4戦隊を出動させます。 これを察知した米海軍はリー少将の指揮する戦艦2艦(サウスダコタ、ワシントン)を擁する優勢な艦隊をサボ島近海に配置して阻止線を展開、ここに再び日米大型艦同士が激突、近接夜間砲撃戦が展開されることになります。 第1幕は駆逐艦綾波が開けます。突撃した綾波は砲、雷撃戦を展開、米駆逐艦2隻を行動不能にし、さらに他の駆逐艦にも大損害を与えます。 もっとも綾波自身も敵の集中砲火を浴びて沈没してしまいましたが。 駆逐艦が排除され裸になった米戦艦サウスダコタは日本軍の攻撃を吸収、合計27発の砲弾が命中し大損害を被ります。 もっとも致命的な打撃はなく上部構造物が破壊されただけで約半年間の戦線離脱で済み、翌1943年3月には戦線に復帰してきます。 サウスダコタが砲撃を吸収している間に、後続の戦艦ワシントンは無傷でレーダー照準の砲撃を開始、この40cm砲弾がことごとく霧島に命中し、霧島は大火災を起こしてしまいます。 必死の消火作業も甲斐なく艦内各所もことごとく破壊されていたため、午前1時25分霧島はその雄姿を南の海に没したのです。 この結果ガ島砲撃の企図は完全に阻止され、前々日の比叡に続きわずか3夜で霧島まで喪失した日本海軍はガダルカナル島を放棄せざるを得なくなり、戦勢は一気に連合軍に傾くことになります。 霧島の高速戦艦故の壮烈な最期でした。 (要 目)開戦時 基準排水量:32,980トン 全 長:222.00m 水線長:219.61m 最大幅:31.02m 主 機:艦本式タービン 4基4軸 出 力:136,000馬力 速 力:29.8ノット 航続力:18ノット10,000海里 兵 装:36cm連装砲×4基 8門 15cm単装砲×14門 12.7cm 連装高角砲×4基8門 25mm連装機銃×10基20門