'php'/*Template Name: 【ページ】"製品紹介"*/?>
太平洋戦争は空母と飛行機の戦争でした。 日本海軍が営々と培ってきた大艦巨砲の象徴、戦艦は1941年12月8日の時点から主役の座を空母に譲り渡してしまったのです。 その結果、日本海軍の戦艦は闘う場を奪われ、「大和ホテル」「長門旅館」などと陰口を叩かれることになります。 しかし、金剛級戦艦4艦のみはその高速を利して空母機動部隊の直衛に獅子奮迅の活躍をしたことで知られています。 金剛級戦艦は日露戦争直前に計画されましたが、1906年に就役した英戦艦ドレッドノートショックを強烈に受けたのです。 日露戦争でロシアのバルチック艦隊を撃滅して意気上がる日本海軍も当時の常識を越えた戦艦ドレッドノートの出現で一夜にして時代遅れとなったのです。 そこで先進のイギリス海軍の技術を学ぶべく計画中の金剛級4艦のうち金剛をイギリスのヴィッカース造船所に発注し、残りの3艦を日本の造船所で造るという策を採ったのです。 金剛級は英巡戦ライオン級の強化、改良型として設計され優速、強火力の極めて優秀な巡洋戦艦となりました。 後の第一次大戦で英海軍から借用を申し込まれたり、ほぼ同級のタイガー級を英海軍が造ったことでもこの優秀性は証明されています。 金剛は1913年、第一次大戦直前に竣工しました。しかし、第一次大戦中の英独両艦隊が激突したジュトランド沖海戦では巡洋戦艦の弱点が露呈してしまいました。 それは速度を重視して防御を二の次とした巡戦特有の欠陥で遠距離砲戦での大落下角の砲弾に極めて弱いということだったのです。 金剛はこの戦訓を取り入れて防御力の強化を計り1928年に第一次改装に着手、1931年に改装が完了しています。この改装により速度が低下したため巡洋 戦艦から戦艦へと艦種も変更されました。(本来戦艦の命名には国の名称を用いるのですが、金剛級4艦はいずれも山の名称を付けています。これは出生が巡洋 戦艦だったからです。) さて、金剛は第一次改装が済んだと思ったら数年で第二次改装に着手します。 これは金剛本来の高速性能を取り戻し、また航空機の発達に伴う航空兵装及び対航空兵装を強化することにありました。 この第二次改装の結果、金剛は30ノットという優速の高速戦艦に生まれ変わり、艦容も我々が見慣れたものとなって太平洋戦争へと突入してゆきます。 金剛は開戦時には近藤信竹中将指揮下のマレー攻略部隊に配備され、同型艦榛名と共に第1艦隊第3戦隊を形成していました。 イギリス極東艦隊に備えるためだったのです。 結果的に英艦プリンス・オブ・ウェールズ及びレパルスの両戦艦は航空機により撃沈されてしまいましたが、金剛と榛名がこの2戦艦と砲火を交える可能性は充分にあったと思われます。 歴史にifはあり得ませんが、結果を問われれば金剛には分が悪かったのではないでしょうか。 金剛はその後南雲機動部隊に編入されインド洋作戦に参加しています。 この時は金剛級4艦が同一部隊で勢揃いをし、その時撮られた写真が往時を偲ばせてくれます。 1942年6月のミッドウェー海戦時には三川軍一中将の元、第3戦隊を編成しミッドウェー攻略部隊に加わっていましたが、直接戦火を交えてはいません。そ の後トラック島に進出し南方作戦に加わった金剛は、一時は山本連合艦隊司令長官直率で大和、武蔵の投入も考えられたガダルカナル島ヘンダーソン飛行場砲撃 作戦に投入され、僚艦榛名と共に栗田中将に率いられて合計918発の36cm砲弾を叩き込みヘンダーソン飛行場を火の海とし、一時的にではありますがアメ リカ軍の心胆を寒からしめ士気を挫くのに成功しています。 その後、1944年6月のマリアナ沖海戦では小沢治三郎中将指揮の空母部隊前衛として出撃して奮戦。 さらに空母機動部隊が事実上壊滅していて上空援護のないレイテ湾突入作戦では栗田艦隊の中核として参加、サンベルナルジノ海峡を突破したレイテ湾頭サマー ル沖海戦で敵護衛空母群を発見、猛砲撃を加え空母ガンビアベイを撃沈、さらに駆逐艦群にも大きな損害を与えました。 しかし、武勲艦金剛もこの後の航空攻撃で直撃はなかったものの至近弾5発を受けて損傷、レイテ作戦には生き残ったものの修理のため根拠地のブルネイ泊地か ら日本本土に赴く途中、基隆沖で米潜水艦シーライオンの雷撃を受け魚雷が命中、長く武勲に満ちた生涯を閉じたのです。 (要 目)開戦時 基準排水量:32,156トン 全 長:222.00m 水線長:219.61m 最大幅:31.02m 主 機:艦本式タービン 4基4軸 出 力:136,000馬力 速 力:30.5ノット 航続力:18ノット10,000海里 兵 装:36cm連装砲×4基 15cm単装砲×14門12.7cm 連装高角砲×4基8門 25mm連装機銃×10基20門 25mm3連装機銃×18基